こんにちは。中村佳太です。
今回は選択的夫婦別姓について書きます。うまく伝えられるか不安で悩みましたが、思い切って書くことにしました。なるべく慎重に書きます。
まず最初に明確にしておきます。僕は「選択的夫婦別姓を一刻も早く導入すべき」だと考えています。いわゆる推進派(賛成派)です。この立場を明確にした上で、今回は様々な場で広く行われている選択的夫婦別姓に関する議論の中で、僕が注意しなければいけないと感じたことを書こうと思います。
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僕が注意しなければいけないと感じたこと、それは、選択的夫婦別姓の導入に関して推進派(賛成派)と反対派の間で「議論が噛み合わない理由」についてです。
議論には様々な論点がありますが、反対派は主たる意見として「”伝統的家族観”を守るためだ」と主張します。たとえば、産経新聞のコラムには次のような主張が載っています。
夫婦同姓は、日本の伝統的な家族観に基づき、社会に広く受け入れられている。最高裁も合憲の判断を示している。制度を変える必要はない
これに対し導入推進派は、次のように反論します。
あくまで「選択的」だといっているではないか。同姓にしたい人、伝統的家族観を守りたい人はそれを選択すればいいんだから、別姓にしたい人にひとつの家族観を押しつけないでほしい
ここで議論は平行線となり、まったく噛み合わなくなります。(そもそも反対派の言う「伝統的家族観」が本当に日本の伝統なのか?との疑問はありますが、ここではその議論は置いておきます)
ちなみに、選択的夫婦別姓の導入を望む推進派の上のような主張を最近では「パレート改善」という概念を用いて説明しているのをよく見かけます。パレート改善とは「誰の効用も犠牲にすることなく、少なくとも一人の効用を高めることのできる変化」(出典・詳細はこちら)を指し、選択的夫婦別姓の導入はその典型例にあたる、との主張です。
僕はこの意見に完全に同意です。全くもってその通り!です。なので、かつての僕は「反対派の人はなぜこれが理解できないんだろう?」と思っていました。
でもそう思っているだけでは議論が先に進まない。そこで、反対派の人々がどう考えているのか、どんな理屈を持っているのかを知りたいと思い、新聞やネットなどでその主張をこれまでより丁寧に、注意深く読み込んでみました。
すると、噛み合わない理由が少しずつ見えてきました。
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僕が気がついたのは、「伝統的家族観」を反対の根拠とする方々(いわゆる政治的保守層)が守りたいのは「自分たちが伝統的家族観を持ち続けられること」ではなく、「日本人みんなが伝統的家族観を持ち続けること」だ、ということです。
選択的夫婦別姓の導入を望む僕ら推進派は「自分のことを自分で決める権利」を重要視するわけですが、「伝統的家族観」を反対の根拠とする方々は個人のことより「日本人全体の伝統的価値観」を重要視する。だからまったくもって議論が噛み合わない。(反対派のいう「日本人」の範囲についても疑問がありますが、それもここでは置いておきます)
パレート改善などの合理性を基礎とする概念は、反対派にとっては(その内容を理解したとしても)全く共感材料にはなり得ないのです。なぜなら、 彼人ら(※)が大切にしているのは、困っている人の「少なくとも一人の効用の改善」よりも「集団全体としての価値観」の方だからです。
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同様に、推進派による「姓の変更はこんなに大変で、それによって私たちはこんなに苦しんでいる!」という説得も反対派には通じません。これを言っても彼人らは「だったら旧姓併記や通称使用をどんどん進めましょう!」と言い返します。実際、前掲の産経新聞のコラムには次のような記述があります。
判決の中では、姓を変えることの不利益は、旧姓の通称使用が広まることで「緩和され得る」とした。パスポートの旧姓併記のほか、旧姓を通称使用できる企業も増えている。夫婦同姓を堅持し、旧姓使用のさらなる拡充などを検討するほうが現実的だ
「伝統的家族観」を根拠に反対する人々にとっては、戸籍制度(≒家制度)を変更しなくてよいのであれば、これらのことは譲歩可能なのです。だからこそ、実際に制度上の旧姓併記や通称使用は進んでいるのです。
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こういった反対意見を僕は受け入れることはできません。なぜなら、「個人の権利」より「集団全体としての価値観」を重視する考え方が広がれば、個人生活や価値観の統制につながるからです。
ただ、こうした反対意見を受け入れられなくても、少なくともその理屈や「噛み合わない理由」を理解することは重要だと僕は思っています。そうしなければ、議論は平行線をたどり続けることになるからです。
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「選択的」である点を訴えても、「いかに苦痛か」を訴えても、反対派には通じない。であるならば、僕たちはどうやって対話を進めたら良いのでしょうか。とても難しい課題ですが、あきらめるわけにはいきません。
僕が考えているのは、「強制的な夫婦同姓は人権侵害である」との観点をこれまで以上にはっきりと主張することです。
日本弁護士連合会は1996年の決議の中で、以下のように述べています
日本国憲法は、個人の尊厳と法の下の平等を基本とし、家族法を個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定しなければならない、と謳っている。
ところが、現行民法は、婚姻にあたり夫婦同姓を強制し、夫婦の姓を平等に尊重することができない制度となっている。その結果、夫の姓を称する夫婦が圧倒的に多く、妻の姓は、夫と同等に尊重されているとはいえない。
わが国も批准している女子差別撤廃条約は、姓及び職業選択を含めて、夫及び妻に同一の個人的権利を保障することを締約国に求めており、この観点からも、選択的夫婦別姓制導入の早期実現が望まれる。
もちろん、人権に訴えてもすぐに対話が進むとは思えません。ただ、最近の議論を見ていると、お互いが議論のテーブルに載せているものの嚙み合わなさを痛感します。
僕たちが守りたいのは「わがままな個人の権利」ではないこと、僕たちが解消したいのは不便さや不利益といった言葉では済まされないものであること、をはっきりと主張するためには、「強制的な夫婦同姓は人権侵害」であるとの観点を議論のテーブルの中心に置く必要があるのではないかと考えています。
僕はこの文章を、分断を深めてしまわないか、誰かを傷つけてしまわないか、と不安と格闘しながら書きました。どうか分断ではなく、対話が進みますように。
※「彼人」について:
「he/she」という性別を意味に含む三人称に換えて、英語ではジャンダーニュートラルな「単数系のthey」の使用が広がっています。日本では「彼/彼女」に換わる同様の人称代名詞が無くてずっと困っていたのですが、翻訳手の木原善彦さんが「彼人」を提唱されていて、僕はこれを使用していくことにしました。読み方はまだ決まっていないようなのですが「かのひと」が有力なようです。なお、今後、同様の意味の他の言葉が生まれ、そちらが定着するようであれば、変更することも当然ながらあり得ます。
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難しいテーマを選びましたね。
「伝統的」という言葉の呪縛にかかり、変化を恐れている人たちが一定数いて、選ぶ権利を認めたくないという意向をもっていることに対話をもって向き合おうとする試みを諦めない姿勢が中村さんの人柄なのだと感じます。
選択的夫婦別姓とは異なる話題ですが、札幌地裁の判決が出ましたね。
最高裁まで争われると予想しますが、法解釈として札幌地裁の判決が尊重されてほしいと願っています。
判決に際し改めて気になったのが国の主張で、国は「憲法24条にある『両性』とは、男性と女性を意味していて、同性どうしの結婚を想定していない。制定された当時だけでなく現在においても婚姻とは男女で行うものとの理解が一般的で、同性どうしの結婚を認めないことが憲法に違反するとはいえない」と主張しています。
「伝統的」や「一般的」という言葉の曖昧さがとても引っかかります。
当たり前などというものは時代によって変化しうるもので、生存権であったり子供の権利であったり、様々な権利は先進的な思想を持ったマイノリティが共同体のルールを変えることで社会実装し、マジョリティの理解は後から追いついたのではないでしょうか。
少数派の人たちを社会が切り捨ててしまわないよう、法の解釈の更新も憲法自体の改正も多数決でない方法で実現できる制度設計にしていく時がきていると感じます。
もし憲法が変わり、変化に取り残されそうになる人たちが現れた時にも対話の機会は必要になるでしょう。
少数派の人たちの意見を排除しない社会を望んでいるのなら、拒絶ではなく対話が融和の道を開くと信じて諦めない姿勢が大切となりそうです。
夫婦同姓の強制は人権侵害である、という視点。とても素晴らしいと想いTwitterなどで紹介させていただいております。
私も何度か反対派の人と議論とは程遠い意見のぶつかり合いがありました。反対派の人の主張があなたのおっしゃる通り「日本人みんなが伝統的家族観を持ち続けること」にあるということもよく理解できます。
ただ自民党や日本会議も伝統的家族観飲みにこだわっているのでしょうか?
私はあれほどまでに政府が頑なに「選択的別姓」反対する理由に、家父長制度の実質的存続にあると思うのです。現在の戸籍には筆頭者という項目があります。妻が夫の姓になった場合は夫が筆頭者、夫が妻の姓になった場合は妻が筆頭者ということになります。現在は夫の姓を選ぶ人がほとんどですので、筆頭者のほとんどが男性です。
戸籍の中のただの項目にすぎないように見えますが、筆頭者というのはその戸籍の持ち主という意味になっています。離婚をしたときにそれが明らかになるのですが、筆頭者が夫の場合離婚すると妻はその戸籍から、消されます。そして妻は旧姓に戻った場合は元の親の戸籍に、別れた夫の姓を名乗る場合は、別の新しい戸籍が作られます。どちらにせよ夫の戸籍も子どもの戸籍もそのままで、子どもは夫の戸籍に入ったままです。例え妻が子どもの親権者であったとしてもです。別れた妻が子供を自分の戸籍に入れたい場合は、家庭裁判所に対して「子の氏の変更許可(民法791条)」を申し立てて、子どもの氏を自分の氏と同じにする必要があります。。
そしてそれだけでは済みません。その妻がその後、再婚したとします。そして再婚相手の姓を選んだ場合、新しい戸籍は再婚相手が筆頭者となり、前の夫との子供はその再婚相手が養子縁組をして初めて再婚相手と母親の籍に入れるのです。そしてその子供は「長男または長女」ではなく「子」と記されます。再婚相手との子供が新たに生まれたら母親にとっては二番目の子供であるのにもかかわらずその子が「長男もしくは長女」と記されます。前の夫との子供はどこまで行っても「子」でしかないのです。
これは明らかに筆頭者というのは戸籍の持ち主「家長」であるのです。
自民党や日本会議は、この「家長」すなわち「家父長制度」を実質的に存続させたいのです。
別姓を選んだ夫婦には当然、「筆頭者」がなくなります。これを何より恐れているのだと私は確信しています。
とてもややこしい説明になりましたが、ご理解いただけましたでしょうか。