こんにちは。中村佳太です。
先月NHK・Eテレで放送された『100分de名著』の『マルクス 資本論』の回が話題でした。
『100分de名著』を知らない方のために説明しておくと、Eテレで毎週放送されている、世界の名著を専門の講師が毎月1冊、100分(1回25分×4週)で解説する教養番組です。講師にもよりますが、一般向けにとてもかみ砕いて解説してくれるのでその本を全く読んだことがない人から、読んだことはあるけど理解できなかった人、それなりに詳しい人まで楽しめる大変魅力的な番組です。僕は毎回ではありませんが好きでよく観ています。
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さて、そんな『100分de名著』が先月(2021年1月)取り上げたのが、カール・マルクスの『資本論』でした。講師がいまとても売れている新書『人新世の「資本論」』の著者で経済思想家の斎藤幸平さんということもあってか、ネットを中心にかなり話題になっていました。
マルクスの『資本論』といえば、世界にとんでもなく大きな影響を与えた経済思想の歴史的書物で、資本主義を語るうえで(立場はどうあれ)避けては通れない本です。ここで僕が『資本論』の解説をすることは場所的にも能力的にも全くもって無理な話ですが、今回のエッセイに関連するところで言えば、資本主義の社会では人々は資本家と(資本家に雇われて働く)賃労働者に分かれ、資本家は賃労働者が生み出す「価値」の一部を搾取することでより大きな資本家となり、一方で賃労働者は資本家に雇われなければ価値を生みだすことのできない存在へと貶められてしまう、とマルクスは説きます。この資本主義が生む「2つの階級」というナラティブが、150年の時を経て現在の世界を取り巻く格差の問題と呼応し、いま世界で『資本論』およびマルクスの思想があらためて注目されている、というのが僕の認識です。(もうひとつ、資本主義が気候変動・環境破壊を生み出すという問題をマルクスが当時から見抜いていたとの観点からも再評価が進んでいるようです)
日本においてこのムーブメントの最前線に立っているのが斎藤幸平さんだと僕は思っていて、その著書がベストセラーになっていることからもムーブメントの大きさを感じています。ただ、僕自身は斎藤幸平さんが著書(ほぼ読んでいます)で展開しているポスト資本主義論については多くの部分において批判的です(部分的には賛同するところもありますが)。このことについてもいずれ書けたらと思っています。
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だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、今回は番組の中でのMCの伊集院光さんと斎藤幸平さんとのやり取りで感じたことを書きたいと思います。
『マルクス 資本論』の第3回(2021年1月18日放送)の中で、以下のような場面がありました。「工場などでの生産過程の中で、人間が製造ラインの中でまるで機械の付属品となり、機械の動きに合わせて働くしかなくなり、人々は自発的に考えて動くことができなくなる。そうして人々は成長できなくなり資本家の言われるがままに従属することになっていく」といった解説の後でのやり取りです。(一語一句発言のままの記載ではありません。気になる方はぜひNHKオンデマンドから番組を視聴してください)
伊集院光さん:
でも、(成長を)期待されるのが苦痛な人もいると思うんです。もともと「俺は(成長なんかしなくても)もうそれでいいんだもん」って言う人だっていっぱいいそうです。斎藤幸平さん:
そうやって思考停止して、現状を受け入れてしまうっていうのはマルクスが思い描いていたビジョンとは違います。<中略>「もともとそういう人たち(成長なんかしなくていいと考える人たち)だった」というよりは、機械の部品として働きつづけることに慣れてしまった、あきらめてしまった労働者たちの姿ともいえるのではないでしょうか。
この斎藤さんの発言に、僕は「奇妙な既視感」を抱きました。
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というのも、斎藤さんの発言の背景には「人間は本来自分の持っている能力を発揮したい、成長したい生き物だ」との思想が見て取れます。だからこそ伊集院さんの「成長しなくていいと思っている人だっているのでは」との発言を否定するわけです。ここにはあきらかな「成長主義」が読み取れます。
一方この「成長主義」は資本主義の本質でもあります。資本主義システムの下では社会は経済成長を目指し、そのために企業は業績アップ(成長)を求められる、そして労働者たちはより会社に貢献できるよう「スキル向上」・「能力向上」・「市場価値向上」という名の成長を強いられる。労働者たちが自由時間を使って自己啓発や資格取得に励むのが現代資本主義社会の姿です。だからこそ資本主義を否定したい斎藤さんは「脱成長コミュニズム」(『人新世の「資本論」』)を提唱しているわけです。
僕が抱いた「奇妙な既視感」はここにあります。
つまり、資本主義が本質的に求める「成長主義」を、それを否定しているはずの斎藤さんの発言の中に見てしまったのです。
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もちろんこの二つの成長主義は同じものではありません。資本主義の求める成長は「経済成長」・「企業の利潤拡大」・「個人の賃金アップ」といった「資本蓄積のための成長」であり、斎藤さんの言う成長は、個人が社会やコミュニティに対して、より役に立ちたい、もっと貢献したい、そのために能力を向上させたいと考えるような、「社会のための成長」だと考えられます。ただ、その目的(資本のためか社会のためか)や対象に違いはあれど個人の成長を前提とするという点では共通した「成長主義」と言えます。
僕はこの二つの「成長主義」のどちらも受け入れたくありません。たとえどちらの意味の成長であっても、個人が成長を前提とする社会は息苦しいし、誰にでも「成長なんかしなくてもいいんだよ」といってあげられる社会であってほしい。僕はそう考えています。
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個人的な話をさせてください。僕はかつて日本社会における典型的なエリート競争社会を歩んでいました。中学受験をして都内の私立中高一貫校に入り、大学受験に失敗したあと一浪してなんとか一流と呼ばれる大学に入学。修士課程まで進み卒業したあとはいわゆるエリートの集まる外資系企業に入社しました。
その会社では自分の「市場価値向上」を目指すことは当然のこととされていました。様々な資格を取る、上司から評価される仕事をする、より売上の上がるプロジェクトを獲得する、などなど。物心がついて以降、「成長しなくていい」などという発想を持った人は周囲にひとりもいないような環境で30年ほどを過ごしました。僕自身、「人は誰しもが成長したいものだ」と思い、そのことに疑いも持たずに生きていたのです。
しかし、30歳を過ぎて会社を辞め、東京から京都に移り住み、パートナーとふたりで小さな個人店を始めました。その後知り合った友人・知人たちにはこれまでの僕の人間関係では出会わなかったような人々がたくさんいました。個人店の店主やフリーランス、工場労働者やフリーター、年金生活の人、そもそもどうやってお金を稼いでいるのか全くわからない謎の人、などなど。そこに広がっていたのはこれまでとは全く違う世界でした。
そういった多種多様な人々は、学歴、職歴、出身地、国籍、ジェンダーなどが多様なのはもちろん、考え方や習慣、人生観までもがこれまでの僕の周りの人々とはまるっきり違うことも多いのです。
そこで僕は知りました。人は誰しもが成長を求めているわけではないのです。
とにかく日々を淡々と過ごしたい、
流れ作業をただ黙々とやっていたい、
誰かの指示で与えられた仕事だけをやっていたい、
と考え、それが心から幸せだと思う人だっているのです。
社会やコミュニティーに貢献したいとか、
自分の持つ能力を発揮したいとか、
そんなことに全く興味がない人だっているのです。
僕にはそんな様々な人々を内包した社会が、とても多彩で輝いて見えました。
これまでの「成長」に追われた世界がどれだけ狭い社会だったのかと悔しい思いでした。僕には成長を目指さない彼人ら(※)が「機械の部品として働きつづけることに慣れてしまった、あきらめてしまった労働者たちの姿」だとは思えません。それは人間として自然な一つの生き方であり、働き方だと思います。
おそらく斎藤さんは、こういった街場に生きる多様な人々のことを知らないのではないでしょうか。もちろん斎藤さんの言うような、資本主義に虐げられた人々はたくさんいます。そのためには様々な改革が必要なことも理解しています。ただ、だからといって「成長したくない」人々の存在は否定されるべきではありません。
伊集院さんの言う「そもそも成長を目指さない人もいるはずだ」という言葉を僕は真実だと実感しています。そして、斎藤さんの発言がそういう人たちの存在を否定していることに危機感を覚えるのです。「反資本主義的な成長主義」によって。
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資本主義における「資本蓄積のための成長主義」も、斎藤さんの主張するコミュニズムにおける「社会のための成長主義」も、どちらも「成長したくない人々」を抑圧してしまう。
真の意味での多様な社会、誰もが平等に生きられる社会を目指すのであれば、「成長なんかしなくたっていい」という価値観も認められる、受け入れられる社会を目指すべきだと、僕は考えています。僕は行き過ぎた現代資本主義には否定的な考えなのですが、一方で反資本主義を主張する人々(の一部)に見る、人間性に対するある種の画一的な見方(社会のための成長主義、「連帯」や「共同」への信奉)は、権威主義に近しいものを感じて受け入れ難いのです。
では、どうするか。僕にはビジョンがあります。まだぼんやりとしたものではあるのですが、引き続き考え、このニュースレターでも書いていければと思っています。
※「彼人」について:
「he/she」という性別を意味に含む三人称に換えて、英語ではジャンダーニュートラルな「単数系のthey」の使用が広がっています。日本では「彼/彼女」に換わる同様の人称代名詞が無くてずっと困っていたのですが、翻訳手の木原善彦さんが「彼人」を提唱されていて、僕はこれを使用していくことにしました。読み方はまだ決まっていないようなのですが「かのひと」が有力なようです。なお、今後、同様の意味の他の言葉が生まれ、そちらが定着するようであれば、変更することも当然ながらあり得ます。
【お知らせ】
だいたい月一回ペースでフリーランスの小嶌久美子さんとお届けしている『雑考配信』を2月8日(月)(このニュースレターの配信日)の20時30分からYouTubeで配信します。今回のテーマは、いま話題沸騰中で久美子さんもハマっているという音声SNS「Clubhouse」と、僕が最近スタートしたこのSubstackでのニュースレターについて。近ごろトピックとして上がることも多い「Clubhouse」と「ニュースレター」についての雑考に興味のある方は、ぜひこちらのチャンネルからご視聴ください。コメントもお待ちしています。Twitterでのハッシュタグは「#雑考配信」です。
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資本主義も含め、〇〇主義に傾倒するのはボディビルにハマることやビーガンにハマることと似ている印象です。
全ての人にフィットする単一の〇〇主義というものは存在しないと思います。
一定数の人たちが共有できる倫理観と、合意の上で保たれる法秩序はあって欲しいのですが、その上に成り立つのが成長至上主義や利益追求至上主義であって欲しくないです。
今、僕が掲げたいのは好奇心至上主義です。
各人が自分の好奇心を追求することを是とし、稼ぐことや、役に立つことや、成長することを強要しない、誰からも求められない世界で経済が成り立つ社会を理想とする考え方です。
成長したい人を排するでもなく、程良い規模に留まれれば良い人もどちらも受容する懐の深い豊かな社会。
他者の不満や不安や不便を解消すること、もしくはそれにつながることのみが職として認められ対価を得られる手段となるのではなく、自分の思うままに生きることを誰もが認め合う。
好奇心追求のために大きな資本が必要ならば、その思いや計画を自由に世界へプレゼンして、無担保で支援を集めることができる。
人々が投票するように貨幣を渡し合い、経済を回す。
働いても働かなくてもなくても生きていけるというのは健全でないようにも思えますが、どんなありようでも生きることが可能な世界は科学の進歩によってなしえる予感がしています。
100分de名著『資本論』、私も観ましたが、あまりピンとこない感じでした。そもそも既に理論的には否定されている労働価値説(マルクス自身も否定していますが)の話をされてもというのもありますが、コモンが大事という斎藤氏の話は同意できますし、そのように思う人が増えているのは良い傾向なのですが、宇沢弘文が三里塚農社で挫折したようにコモンに対する思いが得てして同床異夢になったりしがちなので、コモンの再生は簡単にはいかないと思いますし、無理に進めるとまずいなと感じています。中村さんの続編を楽しみにしています。