「僕だってつらい」を超えてゆけ
こんにちは。
近ごろ、世界中で「#MeToo」や「Black Lives Matter(BLM)」、「#StopAsianHate」などマイノリティの人権問題解消のための市民運動が盛んに行われている。日本でもフェミニズムが大きなムーブメントとなっていることは多くの人が実感しているところだろう。こういった運動を追いかける中でときおり見かける言説に「みんなマイノリティだ」というものがある。
これはどういう意味かといえば、たとえば日本では一般的にマジョリティに属する「男性のエリート会社員」であったとしても、アメリカに行けばアジア人としてマイノリティに分類され、差別の対象になり得る。明日事故にあって車椅子に乗ることになるかもしれないし、1年後に難病にかかっている可能性も誰にだってある。誰もが時と場合によってはマイノリティになるということだ。だからこそ、「マジョリティとマイノリティ」という二項対立で考えるのではなくて、「みんながマイノリティ」の視点で権利向上に取り組もうというのが、この言葉の意図だろう。
実際、僕自身もマジョリティ性とマイノリティ性を併せ持っていると感じている。僕はジェンダーの観点では「シスジェンダー(生まれたときに振り分けられた性と自分の性自認が一致している)」で「ヘテロセクシャル(異性愛者)」の「男性」としてマジョリティに属するが、働き方の観点では「個人事業主」であり、日本では圧倒的にマイノリティだ(全就業者の1割程だそう)。個人事業主は信用度が低いとされ、クレジットカードが作りずらかったり、ローンが組みずらかったりすることはよく言われていて、そういった差別的対応をされた経験は何度もある。また、僕は一部の化学物質にアレルギーがあることから、量販店やデパートでは疎外されている(考慮されていない)と感じることもある。だから、「みんな何かの面ではマイノリティだ」との意見には基本的に賛同する。
ただ、一方で僕はこの「みんながマイノリティ」という言い方には危険な面があり、使い方には気をつけなければいけないと考えている。それについて書く。
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その前にここで一度「マイノリティ」の意味を確認しておくと、マイノリティとは基本的には「少数者・少数派」を意味するけれど、差別や人権の文脈では広く「権力構造上の弱者」を意味する(社会的マイノリティ)。
「女性」は人口的には「男性」とほぼ変わらないけれど、男性優位社会では抑圧・差別の対象となっており、その意味においてマイノリティと言える。(なので「女性は世界最大のマイノリティ」と言われたりする)
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話を戻すと、なぜ僕が「みんながマイノリティ」との言い方を危険だと思うかというと、この言葉がマジョリティとしての権威性や加害性を見えづらくすることがあると思うからだ。
たとえば先日、ある男性研究者が「貧困男性に比べたら女性は恵まれている」との主旨のツイートをして炎上していた。この種の「〇〇に比べたら△△の方が恵まれている」とか「〇〇の方がもっとつらい」といった「マイノリティさ比べ」「弱者度比べ」を引き起こす作用を「みんながマイノリティ」の言葉は含んでいると感じる。
「みんながマイノリティ(なのだから助け合おう)」の意識がいつの間にか「自分だってマイノリティ(なのだから人には構っていられない)」に置き換えられ、その人の持つマジョリティ性(社会構造的な権威性や加害性)を覆い隠してしまうことがある。
「男性」と「女性」を比べたとき、いまの社会は確実に男性優位社会である。にも関わらず自身のマイノリティ性(たとえば低賃金)のみにフォーカスし、「僕だってつらい」と言う行為は、自身の持つマジョリティ性を無視して、相手の生きづらさを受け入れない姿勢を強固にしてしまう。これでは誰も幸せになれない。
似た事例で言えば、「Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)」に対して「All Lives Matter(全ての命は大切だ)」と唱える人が出てきたのも同質の問題をはらむ。「全ての命は大切だ」と聞くと一見正論に思えるが、実際にはBLMの目的である黒人差別の撤廃というマイノリティ性の問題を「誰しも」の話に置き換えることで、マジョリティ側の権威性・加害性を見えづらくする(もしくは意図的に隠す)効果を持つ。
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僕は、自身が持つマイノリティ性は「苦しみの共感」のために大切にしたいと思う。決してマジョリティとしての権威性・加害性を隠すためには使いたくない。
マイノリティとして知った「苦しみ」を、他者の(僕とは違う)「苦しみ」を解消するための力にしたい。マジョリティ側のコミュニティに戻ったとき、その権威性を手放すための動機にしたい。差別や抑圧の撤廃のためにマジョリティ内での連携を広げていきたい。
そうやってマジョリティ性とマイノリティ性を行ったり来たりすることで、周りの人々の苦しみも、自分の感じている苦しみも、どちらも無くしていくよう取り組むことができるようになるのではないか。
以前こんな話を雑誌『STANDART』の行武温さんに話したら、とても上手にまとめてくれた。
「マイノリティさ比べ」をして傷つけ合うのではなく、誰もがどんなマイノリティ性を持っていても生きやすい社会になるように社会全体で取り組んでいけたら、と僕は思う。
「僕だってつらい」を超えてゆこう。
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中村佳太(コーヒー焙煎家/エッセイスト)[Twitter:@keitanakamu]
アレルギー患者差別はもっと問題になってよいと思っています。
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